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最高裁判所第二小法廷 平成6年(行ツ)120号 判決 1996年2月09日

静岡県浜松市佐鳴台四丁目四番二一号

上告人

氏原定雄

同所

上告人

氏原やす

同所

上告人

氏原強

右三名訴訟代理人弁護士

石田享

静岡県浜松市元目町一二〇番地の一

被上告人

浜松西税務署長 神谷良夫

右指定代理人

小沢満寿男

右当事者間の東京高等裁判所平成三年(行コ)第一一三号所得税更正等取消請求事件について、同裁判所が平成六年三月二九日言い渡した判決に対し、上告人らから全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人石田享の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認するに足り、その過程に所論の違法があるとはいえない。右事実及び原審の適法に確定した事実関係の下において、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点も含め、独自の見解に立って原判決の法令解釈の誤りをいうか、原審の判断の過程における一般的説示部分のみをとらえてその不当をいうか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものであって、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 福田博 裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 河合伸一)

(平成六年(行ツ)第一二〇号 上告人 氏原定雄 外二名)

上告代理人石田享の上告理由

(はじめに)

一、上告人らは先祖伝来の原判決別紙物件目録一ないし一五の山林(以下、本件山林という)に含まれる岩石、山砂利などの土石(以下、本件岩石という)を訴外浜北砕石株式会社(以下、浜北砕石という)からの要請に基き譲渡することとし、浜北砕石の用意した書面により昭和五五年一二月ころ基本契約を締結し(甲第一号証、乙第四・五号証)、それに基き本件岩石を譲渡したが、その昭和五九年分の代金収入に基く所得(以下、本件所得という)に対し、原判決は、譲渡所得であると正当に判示した第一審判決を取消し、「営利を目的として継続的に行(な)われる資産の譲渡」に当たるものとして雑所得である旨結論したものであるが、そのために、原判決が案出した判断基準は、

「ところで、本件のようにもともと土地の構成物の一部である岩石のみを独立に譲渡するような場合に、その行為が営利を目的として継続的に行われたものであるかどうか、売買の回数、代金額、対象となる資産の数量、当該土地の取得の経緯、当事者間におけるこれらの交渉経過など諸事情を総合して判断すべきものと解される」(以下、「原判決基準」という)というものであった。

しかし、この原判決基準は一見して極めて融通性に富んだ抽象的なもので余りにも不明確なものであることが明らかであるから先づ、その点において租税法律主義の具体的内容である課税要件、すなわち納税義務者・課税標準・税率などが一義的に明確でなければならないという原則(以下、課税要件明確主義という)に反するものであり、

更に、憲法の根本原則である国民主権主義とつなげて理解されるべきものと説かれているところの租税債務は人民(納税義務者)の申告によって確定するという原則が採用されている確定申告制度(所得税法一二〇条など)の下にあっては、納税者自身が先づ税法を理解して申告しなければならないから税法の第一次的判断は納税者に対し強制されているものであり、従って税法は裁判規範である前に先づ一般の国民を大多数とする納税者にとっての行為規範として存在するものであって、税法の一義的明確化の要請は非常に強いものといわざるを得ないところ、「原判決基準」は、この要請を全く没却するものである。

二、更にまた原判決判示の中には、本件対象年ではない事後のこととか、偽造又は変造されていることが明らかな乙第二六号証(その物件の表示は甲第一号証、乙第四・五号証のそれと異なることは対比すれば明らか)の援用とか、昭和四九年の岩石譲渡が譲渡所得として申告され、そのまゝ是認されていることが無視され、従ってそのことが逆立ちして単に回数が一回多くされるだけの、いわば変質した形での経過事実として利用されるなど採証法則、経験則に反する事実誤認もあり、

加えて、譲渡所得としての上告人らの申告が税務署の指導に従っていることに対し、上告人氏原定雄の第一審本人尋問の結果にその供述証拠があることにふれつゝも「これだけでは浜松税務署の担当者が本件について右主張のような指導をしたと認めるには足りず」として同主張を排斥しているが、これは原審において何ら審理をなさないまゝの判断であるから審理不尽として違法である。

三、なお、本件事案の経過事実等を正確にするため「証明書」と題する書面二通を甲第二二号証、甲第二三号証として添付する。

第一点 原判決が案出した「原判決基準」は、以下述べるとおり、課税要件を明確にすべしとする租税法律主義(憲法第八四条、第四一条、第三〇条、第二九条)の原則に違背する極めて不明確なものであるから破棄されなければならない。

一、課税要件明確主義

いうまでもなく所得税などの租税は国又は地方公共団体が、その経費支弁のために、反対給付としてではなく一般的基準により一般人民から一方的、強制的に徴収する金銭給付を指すものであり、こうした一般人民の財産権の一部を強制的に徴収することは、それ自体国民の権利に対する重要な侵害であるから、法律により予め明確に定められていなければならない(法律第八四条、第二九条、第三〇条等)。

もとより、この租税法律主義の原則は、マグナ・カルタ(第一二条)から権利請願(第一条)、権利章典(第一条四号)、フランス人権宣言(第一三条、第一四条)など近代的市民社会形成過程における権利のための闘争のなかで浮彫りにされているところの課税権者による恣意的課税を排除することを根幹とするものである。

従って租税法律主義の内容としては、租税の種類と根拠が法律によって定められることを要するだけでなく、納税義務者・課税物件・課税標準・税率・賦課・徴収など租税の具体的な内容と手続が法律で一義的に明確に定められていなければならない、とされているのである(判例・通説)。

この点に関し、上告人は、すでに訴状において「マグナ・カルタに源を発し憲法上の大原則となっている租税法律主義(憲法第八四条、第三〇条)からみれば、譲渡所得か否かにつき租税法規の解釈適用が一義的に明確でなく、多義的であり不明確であるときは、国民である納税者にとって最も有利な解釈がとられるべきである」と述べたが、そうでなければ租税行政庁に自由裁量を認めることと同じこととなり、国民の財産権が行政庁の恣意的な裁量によって侵害されることを防止し、国民の経済生活に法的安定性と予測可能性を付与することを目的とする租税法律主義が無視される結果となるからである。

判例もこの理を次のように述べている。

「本条(注、憲法第八四条)の規定は担税者の範囲、担税の対象、担税率等を定めるにつき法律を必要としただけでなく」(最高裁大法廷昭和三七年二月二一日判決、刑集一六巻二号一〇七頁)という大法廷判決も、また「租税法律主義とは、租税債務を具体的に発生される要件は細大もらさずいわゆる法律をもって規定しなければならない、ということである。言い換えると、その法文を読むだけで直ちに納税義務が明確となり、その納税額も容易に算定できなければならない、ということである」(いわゆる大島サラリーマン訴訟控訴審の大阪高裁昭和五四年一一月七日判決、行集三〇巻一一号一八二七頁)といわれるもの、更には地方税法七〇三条の四に基づく国民健康保険税についてであるが、上限の金額のみを定め、その範囲内で各年度の具体的税率算定の基礎とする具体的課税総額の決定を市長の裁量にゆだねる旨の秋田市国民健康保険税条例は、課税権者の恣意的課税を排する、という租税法律(条例)主義の目的を全く九失わしめるもので憲法第八四条、第九二条に違反する旨の仙台高裁秋田支部昭和五七年七月二三日判決(行裁例集三三巻七号一六一六頁、判例時報一〇五二号三頁)なども明確に判示しているところである。

二、租税法律主義と税法の行為規範としての重要性(その一)

ところで、そもそも私法とは異なる租税法には私法関係の判決のような不確定に概念は妥当しないが、それは、租税法は単に裁判規範である前に例よりも行為規範でなければならないからである。

即ち、高柳信一教授が指摘されているとおり、私法それ自体は、市民に何ら実体上の具体的義務を課したり、権利を具体的に奪ったりするものではなく、市民の自由意思にすべてが委ねられ、市民相互間に紛争が生じた時にのみ紛争当事者の申立に基いて、国家(裁判所)が例外的に私的紛争解決のために介入する場合の基準を定めることを内容とするものであり、従って私法規範の名宛人は裁判官であり、本質的に裁判官が裁判する場合の準則であり、そのための命令であるという性質を帯びている。

これに対し、公法、とりわけ租税法律主義が支配する租税法の分野においては行政機関の行為は、法規においてすでに抽象的な意味では定められているところを忠実に具体化するに止まる筈である。けだし税法がなければ国民ないし納税者の租税債務は存在しないからである。この意味で、税法規範は私法と違って、何よりも先づ行為規範として存在する(高柳信一「行政の裁判所による統制」岩波講座・現代法四法・現代の行政所収二六五-二六六頁)。

こうして税法は何よりも先づ行為規範であることが重視されなければならない。従って、課税要件の一義的な明確性は普通人のレベルで容易に理解できるものでなければならないし、課税権者の恣意を排除し、納税者にとっての予測が確保されている必要がある。

三、租税法律主義と税法の行為規範としての重要性(その二)

更に租税法が行為規範として重要性を持つのは、国民主権に根ざすところの所得税などが採用している申告納税制度(所得税法第一二〇条、国税通則法第一六条)とのかかわりである。すなわち所得税など申告によって具体的な租税債務が確定するという原則の下においては、租税法規は先づ何よりも第一に納税者の申告が必要であり、この申告を納税者が怠ったり或は申告が不適法であったりすると各種の加算税が課せられるし、場合によっては処罰されることも有り得るものであるから、申告納税制度の下では、先づ納税者自身が税法令を解釈、適用して申告しなければならず、その点で税法の第一次的な判断・適用が納税者に対して強制されているのである。

従って申告納税制度を採っている所得税法などは賦課課税方式の税法や他の公法(刑事法や行政法)などが第一次的に行政機関による法令の解釈、適用を前提としていることからすれば、その場合には行政機関が第一次的に判断して行なうであろう行為などの明確性が保障されていることが足りるのに対して、申告納税制度の場合には、通常の納税者レベルで自らが申告するにつき課税要件のすべてが具体的に判断できるだけの一義的明確性が保障されていなければならないのである。

こうして申告納税制度下の租税法規には一義的明確性が最も判然と確保されていなければならないのである。

四、「原判決基準」の違憲、違法(その一)

(一) ところで「原判決基準」をみれば、「売買の回数、代金額、対象となる資産の数量、当該土地取得の経緯、当事者間におけるこれらの交渉経過など諸般の事情を総合」というのであるが、先づ第一に、これは余りにも不明確なものでこれによって譲渡所得か雑所得かを具体的に区別することは、そもそも不可能といわなければならない。

もとより「売買の回数」が何回あればどちらになるか、「代金額」がどの額で区別されるのか、「対象となる資産の数量」がどれだけを区分の数量というのか、先祖伝来の土地も営利性に含まれるというのか否か、「当事者間におけるこれらの交渉経過」とは具体的にどのようなことを指すのか、「など諸般の事情を総合」とは具体的に何を意味するのか、など全く分析することもできないものであり、また極めて抽象的で且つこのような分析不可能なことを、どのように「総合」することができるのか全く具体的な指標たりうるものがない。

こうした無限に融通がきく余りにも不明確な「原判決基準」は、先づおよそ具体的な基準とはなり得ず、正に租税法律主義が排除する課税権者の恣意的課税の介入を許容する内容であることは明らかであって課税要件明確主義に反する。

(二) また「原判決基準」は、前述した納税者に対する行為規範としての租税法規の重要な意義を全く没滅し、更には申告納税制度の意義と租税法規が納税者を名宛人としていることを完全に忘却した違法がある。

いうまでもなく譲渡所得か雑所得かという所得区分は税額に直結するものであり、その区分は確定申告をする納税者に明確になっていなければならないし、そうでなければ税法の不備、課税要件明確主義に反するものとして課税権の行使をすることは許されないものである。

納税者が申告する際に譲渡所得か雑所得かの区別の判断基準とすることが期待することが困難で著るしく不明確な「原判決基準」は、税法の行為規範性からみても、まして申告納税方式という強い行為規範性をもつ所得税であることが全く無視されていることからみても違憲、違法であることを免れないものである。

五、「原判決基準」の違憲、違法(その二)

また本件の主な経過事実からみても課税要件の明確性、一義性に明白に反する。

(一) 先づ原判決が理由第三、一、1.で判示する昭和四九年一月ころの浜北砕石への岩石等の譲渡は現上告人らは関与せず、当時生存していた文雄(上告人定雄の父)が行ったものであるが、その代金は譲渡所得として長野正明税理士が代理人として申告し(甲第七号証の一、二、三)、それがそのまゝ被上告人において是認されていること(本書添付の甲第二二号証)。つまり、ここでは譲渡所得として課税庁も納税者も争いなく認識し合っていた。

(二) その後の本件と同一の基本契約に基く昭和五五年から同五七年までの譲渡代金についても譲渡所得として長野正明税理士を代理人として申告され、そのまゝ経過していたこと。

(三) ところが、昭和五八年七月頃に至り長野正明税理士から上告人氏原定雄に連絡が入り、税務署から雑所得として修正申告をするように言われていることを知らされ、理由が不明なまゝ右税理士から求められるまゝに判を押したことがあり、昭和五八年分については右長野税理士を代理人として雑所得として申告した。しかし、上告人らにとってはどうも腑におちない申告であったため昭和六〇年二月頃、今度は村木敏夫税理士をたづねて相談をしてみたところ、これは先祖伝来の持ち山にある岩石等の譲渡だから所得税法第三三条一項の譲渡所得であり、雑所得ではない旨の説明及び念のため税務相談に行ってくるよう指導をされて昭和六〇年三月一日所轄税務署へ相談に行ったところ、先祖伝来の持ち山だから譲渡所得に当る旨の回答を得、そのことを村木敏夫税理士及び長野正明税理士に伝え、且つ本件対象年度である昭和五九年分の浜北砕石からの代金収入につき譲渡所得として申告したこと(本書添付の甲第二三号証、上告人本人氏原定雄の第一審尋問の結果)、

(四) その後、被上告人から更正等の本件処分を受け、異議申立を経て審査請求をなし、本訴に及ぶことになるのであるが、原処分庁及び裁決庁の判断も、これまた原処分を維持するためだけの非論理的なものであった。

すなわち異議申立棄却決定は本件岩石譲渡は「営利を目的として継続的に行われているから譲渡所得ではなく雑所得」という結論だけが示されているに止まるものであったが、審査請求に対する裁決理由に示されている原処分庁の所得の種類についての主張(乙第一ないし三号証)の記載によれば、「対価を得ていることは営利目的そのもの」というのである。しかし、そもそも対価が零(無償行為)では所得税法が対象とするべき事項とはなりえないものであるし、また従って一定の対価があること(有償性)を当然の前提としてはじめて所得税法第三三条一項も制定されてれいるのであるから、原処分庁の右主張は立論そのものが失当であった。なお、この主張は被上告人の第一審における予備的主張として繰り返されていた。

(五) 更に、審査請求に対する裁決理由の判断をみると「本件岩石を浜北砕石へ譲渡した旨の当事者双方の主張はいずれも失当で」「土石等を採掘し又は採取を特定の期間にわたって許諾する」という「土石等を採掘又は採取する権利の貸付け」で、「所得税法二三条ないし三四条に定める各所得のいずれにも該当しない」から雑所得であるというのであるが(乙第一ないし三号証)、少し冷静に考えれば「土石等を採掘し又は採取する権利の貸付け」というのも、「処分可能な権利であり、現実の社会生活において経済的に金銭に評価できるもの」であってみれば所得税法三三条一項に定める「資産」というべきが明らかであるからこの裁決理由もまた、「資産」と言って了うと雑所得という原処分を維持するうえで先祖伝来の山林では営利性の説明に窮するところから考案された場当り的な判断理由であった。なお、この判断理由と同じ内容の主張が被上告人の第一審における主位的主張とされていたが原審において、その主張は撤回されている。

(六) こうした本件原処分の理由付けの経過をめぐる複雑で非論理的、非実証的な変遷のプロセスは、それらがいずれも強弁というに価することを示しており、更に抽象的で余りにも不明確な「原判決基準」によっては課税機関による恣意的処分が横行する危険が大であり、申告納税制度、租税法律主義そのものが無視される、こととなるから原判決は到底破棄を免れない。

第二点 また原判決の営利性、継続性の有無についての「検討」をみれば(原判決10丁~11丁)、その記載内容はいずれも営利性、継続性の理由とはなし得ないものばかりであるから所得税法第三三条一項の譲渡所得の例外としての同条二項の営利性、継続性はなく、従って原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背があるから破棄されなければならない。

一、「本件岩石」の譲渡契約について「毎年一二月に五回にわたって締結されていること」が先づあげられているが、しかし書面化されたのは基本契約(甲第一号証)のほかには各年毎の三回があるだけであり(甲第二ないし四号証)、その各年毎の契約書面は右基本契約に則って作られ、また各年毎の書面がない本件課税対象年である昭和五九年分についても基本契約に基き岩石譲渡契約が維持されているのであって、毎年の契約は譲受人側の第一審鈴木勝政証言、同人に対する大蔵事務官の聴取書二通(乙第四号証昭和六二年一一月一七日付及び乙第五号証昭和六三年一二月二〇日付)などによって第一審判決が明示したとおり、一括払いで一億円という話があったが、「浜北砕石」側の都合によって一〇年で二億一千万円支払うのと一億円を一時に支払うのとは当時の金利を考えると大差はない、と判断されて、二億一千万円を一二〇回で割って金一七五万円を代金月額としたことが明らかである。従って、「本件岩石」の譲渡契約は各年毎のバラバラなものではなく基本契約(甲第一号証)に則って行なわれたもので、甲第二ないし第三号証も右基本契約を確認し合うものであったことが明らかである。従って第一審判決のとおり「岩石の譲渡は一回的に行なわれ、代金が分割払いとされた」とみなければならないことは証拠上明白である。

二、次に原判決は「被控訴人定雄及び被控訴人強は、これらの譲渡契約による以前の昭和四九年にも本件土地の一部の岩石を浜北砕石に譲渡していること」といい、恰も回数を一回多く見せているが、これは被上告人らの独自の主張に基くだけのもので、この昭和四九年分岩石譲渡については譲渡所得として申告され、管轄税務署においても譲渡所得として取扱われていることが同時に指摘されなければならない(甲第七号証の一、二、三、及び本書添付の甲第二二号証)ものである。

従って、この事実は、岩石譲渡の営利性を否定するもので、少なくとも原判決の取り上げ方は逆である(ちなみに甲第七号証について原審審理過程で被上告人側代理人はその申告の存否を調査する旨約したが、その後、すでに時間の過程で管轄税務署には書類が存在しない、ということであったから、少なくとも申告どおり譲渡所得として是認されれていることは推定とれるところであるし、その確定申告の代理人長野正明税理士も譲渡所得としての申告が是認されていることを述べている甲第二二号証)。

三、本件岩石譲渡の対価が昭和五五年一二月以降毎月支払われていることは営利性の存否とは何ら無関係なことである。けだし、前記一、のとおり分割払としての内容であれば、支払われることは当然のことであって、異とすることはできない。もとより無償譲渡であれば、譲渡についてそもそも代金収入はないから、いかなる意味でも所得税の対象とはならないものである。

四、また上告人三名合計の年間合計の譲渡代金額が金二、一〇〇万円であることについても譲渡所得か否かについての営利性の存否とは無関係である。けだし譲渡所得について金額の限定が存しないことは法律上明白であり、また、これはいわば量の問題であって営利性の存否という、いわば質の問題とは無関係なことである。

五、また、譲渡契約は、いうまでもなく譲渡側と譲渡側の合意であるから、そのために何らかの交渉がなされることは当然の事理であるが、本件では前記一、で述べたとおり、一〇年で二億一千万とすることも一時に金一億円とすることも当然の金利動向からみて「大差ない」と浜北砕石側で確認しそれに基いて一〇年に分割して支払うこととしたもので、本件譲渡代金が分割払の内容をもつものであるから、それは営利性の存否とは無関係である(なお一〇年という比較的長期の分割払であってみれば、物価ないし金利の変動が著るしくなった場合は、例えば、勤労者の住宅ローンでも借り変えなどの修正が行われうるが、それが営利性の存否とは全く無関係であることと同じであるから、原判決が「物価の変動に対応して」というのは本件岩石譲渡契約上は全く従たる修正可能性を示すものに過ぎず、そのようなことは長期分割債務支払契約では往々に見受けられることである。)

なお昭和五九年という本件対象年までは「譲渡代金月額や採石対象土地」の「変更」もなく甲第一号証の基本契約どおりに行われていたのであるから、原判決は採証法則に反する著るしい事実誤認に陥入った違法もある。

六、また原判決は、昭和六〇年一一月に、有限会社佐鳴興産を設立したことを被上告人が原審で述べたとおりに採り上げているが、しかしそれは先づそもそも本件の対象である昭和五九年分ではなく、その後のことであり、しかもこれは上告人らが税務署員や税理士から法人化すれば本件の如き紛議は生じない旨、法人化することを実際上すゝめられたことに基づく(原審被控訴人の平成四年六月二三日付準備書面第一、四で陳述)。事後に、しかも被上告人側の事実上の指導に基いて設立した有限会社のことは、いかなる点でも本件当時の営利性存否とは無関係といわざるを得ない。

第三点 また原判決が、一括して譲渡した旨の第一審判決や上告人の主張に対して判示する事実認定に供した乙第二六号証は本来のものと別異の物件目録が添付されており偽造又は変造にかかるものであるから再審事由となるもので(民事訴訟法第四二〇条一項六号)、この点においても原判決は破棄されなければならない。

一、原判決は事実認定の証拠として乙第二六号証を挙示する(原判決、事実、第三、一)。

二、そして乙第二六号証は原判決が「昭和五八年ころに、岩石採取の対象土地に別紙物件目録一六及び一七記載の二筆の土地が追加され」(原判決8丁裏)として、且つ「採石対象土地が変更され」(原判決11丁裏)として、原判決の言う営利性判断に供せられている。

三、しかし乙第二六号証は原審で初めて提出されてものであるが甲第一号証、乙第四号証末尾添付及び乙第五号証末尾添付の基本契約書と対比すれば明らかなとおり同一文書であり乍ら、その「物件の表示」をよくみれば、活字(書体)が異なっていることは勿論、内容上も原判決の物件目録一六、と一七、の二筆が新たに書き加えられているものである。

つまり、乙第二六号証は甲第一号証、乙第四号証末尾添付及び乙第五号証末尾添付の物件目録が何者かによって偽造又は変造されたものであることが今は客観的に明白と認識できる。

四、この偽造又は変造された乙第二六号証は被上告人側から原審において、浜北砕石が昭和五八年九月浜北市長に対して提出した土石採取事業実施計画書に添付されていたと主張して提出されたものであるが、上告人らが全く関知しないものである。

五、ちなみに乙四号証は被上告人側説明の昭和二八年よりも可成り後の昭和六二年一一月一七日に岩石譲受側である浜北砕石専務の鈴木勝政から大蔵事務官が本件契約について事実関係を聴取したものであるが、それに添付されている物件の表示を含む契約書も甲第一号証と同じであり、更にその約一年後の昭和六三年一二月二〇日のそれである乙第五号証添付の契約書物件の表示も甲第一号証と同一である。

その上、乙第四号証、乙第五号証ともに、それぞれ大蔵事務官が本件契約書の提出を求めたところ、二回とも、それぞれに添付された契約書が示された旨の記載がある。従って被上告人側主張にかかる浜北市長宛に昭和五八年に浜北砕石から提出されている書面に添付されているという乙第二六号証は、外ならぬ浜北砕石においてさえ認識外のものであったし、甲第一号証と同じ乙第四、五号証添付の契約書の認識であったのである。

六、以上のとおり偽造又は変造にかかる乙第二六号証はどのようにみても事実認定の用に供しえない偽物であるから、それを事実認定に用いた原判決は到底破棄を免れない。

第四点 原判決には、また、上告人らの確定申告が税務署の指導に基いて譲渡所得であることを確かめて申告したものであることにつき行政法上の信義則からみても原処分は違法である旨の主張を排斥したが、それは審理不尽の違法であるから破棄されなければならない。

一、上告人らは昭和五五年一二月から昭和五七年までの本件岩石等譲渡代金につき長野正明税理士を通じて、譲渡所得として申告していたし、そのまゝ推移していたが、前記第一点五、記載のとおり昭和五八年七月頃、同税理士を通じて税務署から譲渡所得扱いを雑所得とする修正申告書に判を押すようすゝめられ、内容不分明のまゝ判を押し昭和五八年についても同税理士を代理人として雑所得として申告したが、不信の念が絶えなかったため昭和六〇年三月一日にも管轄税務署を訪れ甲第五号証に記載した状況で相談したところ、「先祖伝来の場合は譲渡所得であるから、譲渡所得として申告するよう」指導された(上告人氏原定雄本人第一審供述、甲第五号証、本書添付の甲第二三号証)。

二、上告人定雄は右のことを村木敏夫税理士、長野正明税理士の二人にも連絡し、特に税務署へ相談に行くことを強くすゝめた村木敏夫税理士には甲第五号証を持参して税務署でも譲渡所得であると言われた旨を伝え、村木敏夫税理士は上告人らの代理として本件昭和五九年分の譲渡代金は譲渡所得として申告し、すでに雑所得と修正申告させられている昭和五八年分については国税通則法二三条による更正の請求書を、それ以前の分については嘆願書を提出したものであった(上告人定雄本人の第一審供述及び本書添付の甲第二三号証)。

三、従って税務署が、本件代金収入を譲渡所得として指導したことは間違いない事実であるところ、行政法上の信義則違背の主張につき何ら審理を尽さずに、単に、「これだけでは浜松税務署の担当者が本件について右主張のような指導をしたと認めるには足りず」と排斥したことは著るしい審理不尽の違法がある。

以上

(添付書類-甲二二号証、第二三号証-省略)

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